母は私が20歳のとき癌で他界しました。
その後、私は荒れに荒れまく…れず、
ただ母の死を考えないことを選び、
毎晩遊びほうけました。
その日々のことはブログにも書きました。
一生分、遊んだと思う。
今回は母のことを書こうと決めたものの、
どうも気が重い。
というのも、母のことが嫌いだったから。
数年前、友達とスピリチュアルな集まりに行った時、
参加者が自分の悩みを打ち明け、
それに対してカウンセラーがこう言いました。
「お母さんが嫌い」と言ってください。
その人は泣きながらに
「お母さんが嫌い」と繰り返し言いました。
「お母さんなんか大っ嫌い!」
「私の気持ちも知らないで!」
「バカにしないで!」
「悪口ばっかり言いふらして! 卑怯なのはそっち!」
叫んで、泣いて、母親を罵っていました。
このスピリチュアルの考え方がお母さん原因説で、
母への怒りの気持ちをしっかり身体の外に出し、
心を浄化させるという方法。
母親が子供に対して与える愛情やケアが重要で、
十分な愛情を受け取れなかった場合、後の人生において
不安や自己肯定感の低さなどの問題を抱える可能性があるといわれています。
「お母さんなんて大嫌い」そう泣きながら叫ぶ姿が衝撃的で、
そこから、私の考えが変わりました。
なんだ、お母さんが嫌いって言ってもいいんだ。
その気持ちを認めてあげると
「母のことが嫌い」だと思い続けている自分から解放されたような。
母に直接「嫌い」と言うが狙いではなく
自分のために言うんです。
「母のことが嫌い」と言った人は
満足したかのようにすっきりした顔で
「あぁ、もういいかな」と言いました。
もうこれ以上言わなくてもいい底が見えたんだと思います。
それから私は友達と親のことを話すときも
「母が苦手だったから、嫌いだったから」と言っています。
そうすることで「母を好きになれなかった」自分を
解放してあげたような感覚になるからです。
もちろん母を嫌いな反面、
母のことを可哀そうだと思ったことも多々あって、
父と喧嘩するたびに
「結婚したのが間違いだった」と言ってたり、
「あんたはアホやから」と娘に言ったり、
短大卒をずっとコンプレックスにしてたり、
他のお母さんたちに無視され孤独だったり、
母はいつも本を読んでいて、
それは「最高の人生の手に入れ方」みたいな本。
びっしり線を引いて、メモしていました。
本の中に答えを見つけたかったのか。
生きるのが下手な母。
もっと自由に表現すればいいのに…と娘ながら思っていました。
私とは性格も正反対で
(でも最近は似ているところが多く感じられる)
母も内心、私のことを
絶対に友達にはなりたくないタイプだと思っていたに違いありません。
母に関するエッセイもたくさん読みました。
もちろん母との優しい時間もありました。
スイミングスクールの帰り、
母の自転車の後ろに乗りながら
ゲソ揚げを2人で食べたこと。
なぜかそんなの覚えてる。
沖縄の大学に進学した私のために
入学式に来てくれた母が
MDプレイヤーを買ってくれたこと。
高校時代、大失恋して
めそめそしてたら「これ読みい」と手渡されたのは
線がびっしり、母のメモ、コメントが添えられていて
考えてくれたんだと知りました。
その後、その本を持って
沖縄に傷心旅行に出たんだよね。
でもやっぱりもやもやした感情で忙しく
「母を嫌いだと認められない自分」
「母を可哀そうだと思ってしまう自分」
「そんな母に認められたい自分」を持ち続けていました。
年を取ったらお母さんと付き合い方も変わるよ、
昔より仲良くなったもん。
そんな声を聞くたびに、それができない私は
ぎゅっと胸が苦しくなります。
私はいつ母への想いを解放できるんだろうか。
母が息を引き取るとき
「ありがとう、大好きだよ」が言えなかった。
ただ「(こんな娘で)ごめんね」だけ。
母にそんな言葉を最後残してしまった自分がやっぱり嫌になる。
コメント